北オセチア共和国



武装勢力が北オセチア共和国の学校を占拠、数百人の児童生徒・教師・保護者を人質にした事件で、ロシアの特殊部隊が「結局は」強硬手段に出て銃撃戦となり、恐らくは武装勢力の何人かが自爆するなどしたこともあってだろうが、多数の死者が出たという報道があった。この報道について考えようとして、如何に「分からない事が多いか」を改めて痛感した。(事件の推移については、こうなるのではないかと予測していた部分と、そうではなかった部分があった。事件そのものについては改めて考えたい。)


まず、「北オセチア共和国」そのものについての知識不足。概要はWikipediaで知ることが出来る。地理的な背景から「チェチェン」との関係も見えてくる。だが、この国の歴史や現状を知ろうとすると、実に様々な要素を調べなければならないことが分かる。


次に、武装勢力が「チェチェン」に属していると言われるが、そのチェチェンとロシアとの長年にわたる戦争、衝突などの関係。勿論、チェチェン共和国についても同様だ。これも調べるのには時間がかかる。表面に現れた(日本国内で一般的に報道された)情報では、戦争やテロといった事象のみが取り上げられて、被害がどの程度でたのか、などといった数値的な情報ばかりが目立つ。チェチェンについては、「人権」をキーワードにしている(そう明記している記事もあり、実際そうなのだろう)関連したサイト「チェチェンニュース」を見ると、情報を得られる。ただ、記述内容に明らかにある方向へ誘導しようという意図が感じられるので、その方向の是非を判断できるまでは全面的に信用することは出来ない。今は参考程度にその情報を頂戴している。


さらに、今だもってその実態を理解するのが難しいロシア。プーチン大統領の言動は報道を通じてかなり頻繁に目にすることが出来るが、ソ連解体後のロシアそのものの現状をどの程度知っているかというと、われながら心もとない。


これらのことについての知識・情報を少しでも得ようと考えているが、その背景に何があるかは薄々見当がついている。


キーワードは、民族と、政治的・経済的な利益追求、といったところか。パレスチナとイスラエルの関係(この標記順は、ややパレスチナ側に立った場合。標記を逆にするとイスラエル側に立った場合。そう捉えることに矛盾はないだろう。)や、サダム・フセインがキーマンとなったクウェート侵攻・湾岸戦争から現在も余波が続くイラク戦争、内戦を引き起こす要素がまだ残る英国やスペイン、チベットの問題、インド・パキスタンの問題、等々関係があると考えられる問題は数多くある。こうした問題は、キーワードもそうかもしれないが、WWWのように世界中に関係を持ちながら日々変化しているようだ。


イラクがクウェートに侵攻し、アメリカを中心とした国々がイラクと戦争を始めた頃、ペルシャ湾について知りたくて、数冊の本を買って読んだ。それらの本は当然ながら湾岸戦争と呼ばれた戦いの始まる前に書かれたもので、ある意味で純粋さを持った歴史書的な読み物だった。基本的なこの地方の歴史はある程度理解できた。その理解の中心は「石油」とその利権だった。


その後、アラブ・イスラエル間の歴史的な出来事(それは結局儀式でしかなかったことが後で分かったが)の前後に「民族」についての本をいくつか読んだ。こちらは読んでも読んでも理解できなかった。私の読解力の低さが原因なのだろうが、同じ本を何度となく読んでいながら、ある程度の範囲内でしか理解できないでいる。


上記2つの項目を調べた当時、インターネットはまだ普及しておらず、情報源の大半は書籍だった。今は事情が違う。劇場や学校を占拠するといった事件についても含めて、その背景をもう一度整理するために、改めて調べようと考えている。

ホームにて



仕事帰りの地方都市の駅でのことである。


電車の待ち合わせ時間が20分ほどあった。ちょうどP2P関連のソフトウェアを取り扱うことになったので、直前にチェックしていた高木さんの日記ページ等を見ながら、Winnyのことなどについて、自分なりの考えをまとめようと、ベンチに腰を下ろしてノートPCを取り出した。


向かい側のホームに停まっていた電車が発車して、静かになったそのホーム上を見ると、一人の男がその真ん中で仰向けになっている。男は大の字になって休んでいるようにも見えるし、気絶して倒れたところたまたま大の字になったようにも見える。病人かとも考えたが、それであるならば駅員か出発した電車の車掌などが気づいて、何らかの対処をしたであろう。やはり自ら仰向けに横になり、手足を伸ばして休んでいるようである。


時間はまだお昼過ぎだが、酔っ払っているのかも知れない。そのホームは、数多くの鳩が待合の乗客が落とす食べ物を目当てに集まっている。突かれたり、上から糞爆弾を落とされたりするのではないか、と要らぬ心配をしながら見ていると、男もそれに気づいたのか(そうではなく、飲みなおしのための行動であったことは後で分かった。)起き上がり、近くのベンチに腰を下ろした。P2Pよりもそちらに関心をそそられて、PCの電源も入れずにいたことに気づいて、気を入れ直そうと男から視線を逸らせた。


すると今度は、大声が聞こえる。何かと思って声のするほうを振り返ると、跨線橋の階段を、私のいるホームに向かって降りてくる、まだ10代と思しき女性が、携帯電話に向かって怒鳴っている姿が見えた。どう見ても彼女との距離は20m近くある。その距離にも拘らず、すぐそばで話していると感じるほどやかましい。ホームの屋根に反射して増幅されているようである。(その風貌も特筆すべきものがあるが、ここでは関係ないので省略する。)


彼女は興奮気味である。正々堂々と携帯電話に向かって自らのプライバシーを公表した内容によると、電話の相手が朝方になって泊まりに来て、自分は熟睡していたところを起こされ、寝不足で体調が悪い。ところが、その睡眠不足の原因を作った相手が彼女より先に起き出して、向かった先で彼女を呼び出したらしい。寝不足の彼女はその呼び出しの指定時間に遅れている様子だ。相手は彼女の遅刻を責めているようで、それに対し彼女は悪いのはそちらだと、大声で相手を非難している、という状況らしい。それにしても、見たところ私の他にも数十人の待ち合わせ客がいるホームで、よくもあれだけ大きな声を出せるものだと、半ば感心し、半ば呆れた。


その後も、電車が到着するまで「エミちゃん」がどうしたの、「ケイちゃん」がどうしたのといった、エミちゃんやケイちゃんが聞いたら赤面するかもしれない暴露話をする彼女の大声は続くのだが、次に私の作業を邪魔したのは、私のすぐ横に立っていた年配の女性である。恐らく60歳は超えていると思われるが、いでたちは若作りである。化粧も濃い。その女性が喫煙場所が数メートル先にあるというのに、プカプカやり始めた。私も煙草を吸うが、これ以上嫌煙運動に押さえ込まれて喫煙場所すらなくされることを恐れて、指定場所でしか吸わない。喫煙ルールに反したことをする人がいると、マナー違反の多さを根拠に全面禁煙がより強く主張されるなど、その結果が同じく喫煙家の私に極めて不利な状況をもたらす可能性がある。自己中心的な消極的実利主義で、こと喫煙に関してはルール違反を見逃せない。(そのくせ、滅多に注意はしない。)それとなく注意するような視線を彼女に向けると、それと気づいたのか、女性は喫煙場所の方へ移動した。


ほっとして、何気なく向かいのホームに目をやると、大の字から起き上がった例の男が酒らしきものを飲んでいる。やはり酔っ払いか、と思って一時視線をPCのほうに落とし、もう一度変な予感がして男のほうを見ると、今度は男がこちら側を向いて、ホームの端に立っている。何事かと見ると、男はこちらを向いて立小便を始めている。もちろん、一物は公開状態で、じゃーじゃー流している。相当飲んだらしい。こちら側のホームには女性も数多くいたが、見回すと男性客も含めて見て見ぬふりをしている。男が用を終えた後のホームは端の部分からしばらくの間しずくが流れ落ちる見苦しい状態が続いていた。男のすぐ脇には若い男が、それに気づいているのかいないのか、携帯電話片手にメールのやり取りをしている様子だった。


やれやれ、と思って再びPCを使おうとしていたら、案内が流れて待っていた電車が到着してしまった。結局、ホームでの小作業はまったく出来ず、何の考えもまとまらないまま電車に乗ることになってしまった。


今日私がたまたま目にしたこれらの3人がどのような環境で、どのような生活をしているのかは分からない。酒を飲み、ホームで寝転び、ホームから小便をする男や、禁煙場所で優雅に紫煙をくゆらせる年配の女性が、住基ネットを利用したり、携帯電話を利用したり、ネットショッピングをするのであろうか。するかもしれないし、そういう疑問を抱くこと自体、偏見かもしれない。携帯電話に向かって大声を出し続けた若い女性は、そうしたものを利用する確率は高いであろう。しかし、偏見との批判を覚悟で敢えて言うなら、愛煙家の年配女性はこの際別として、プライバシーの保護の問題などからはかなり距離のある人達ではないのだろうか。とするならば、そういう人はどの程度の割合でいるのであろう。逆に、一般に言われているところのプライバシーの保護を必要とする人はどの程度の割合で存在すると考えれば良いのだろう。無論、プライバシーというものが個々の環境やら生活内容やら主義主張などに無関係に、画一的に捉えるべき性質の問題だとするなら、そんな割合を考えることは無意味であろう。だが、仮に一般にプライバシーと言われている問題にさほど関心がない人達の割合が、私などが想像するよりも多いとしたら、そうした人達が最も関心を示す可能性があるのは、結果的に金銭的な被害が発生する恐れのある問題になるのではないのか。こちらは、個々人のプライバシーの問題自体より、そのプライバシーの一部が漏洩することで発生するリスクを軽減するセキュリティ面の問題として重要になってくるのであろうか。


などと、素人考えで悶々とするうちに、家に着いてしまった。実にまとまりのない一日であった。

ゲーム

昔、CPU が8ビットだった頃、「とのさまゲーム」というのがあった。


殿様の立場で領民に施したり、税を取り立てたり、兵士にしたり(確か)・・・。
考えてみると、現在の三国志などのゲームの原型と言える。
もちろんテキストベースのゲーム。結構楽しんだ記憶がある。


いまでも、当時のカセットがどこかにあるはずだが・・・。

無線アワビ

様々な方面で実験が進められているRFIDタグが、アワビにもつけられる計画があるとか。


その関連のソフトウェアに近い仕事をしている身としては、プライバシー等の問題も気になるが、間違ってアワビと一緒にタグも食べてしまう人が出るのでは、と余計な心配。


スナイパーライフルでタグを人体に密かに打ち込む実験もされているとか。いっそ、タグつきのアワビをご馳走してみたら?

不惑



 こんなことは、どうでも良いことかもしれないし、既に誰かが考えたり、発表したりしているかも知れない。しかし、少なくとも私はどこかで読んだり、聞いたりしたことがないので、書くことにした。先達がいるとすれば、こんな文章は私の無知から出た錆の結晶である。


 私がここで言いたいのは、今や「不惑」の歳は40歳ではないらしい、ということである。


 不惑というのは、論語の「子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」にある言葉で、40歳の代名詞になっている。40歳にもなれば、何事にも惑わされなくなる、という意味に捉えてよいのであろう。孔子にとって、或いは孔子が生きていた時代にはそうだったかもしれないが、現代にはそのまま適用できないだろう、と考える。(少なくとも私には当てはまらないし、私の同年代の知り合いに、その境地に至ったと思える人物は残念ながら見られない。)


 孔子は70歳すぎまで生きた人だったようだ。その孔子が70歳までの自分の生きてきた過程を振り返っての言葉がこれである。(多分。もしかすると弟子の言葉かだったかもしれない。)孔子が生きた2000年くらい前の時代、平均寿命は明治初期あたりとさほど変わらない、40歳から50歳くらいと考えられる。孔子だって、預言者ではないのだから、若い頃は自分の寿命を40年か50年くらいと見積っていたはずである。


その時期までに、人として生きた証として、精神修行を積もうと考えたのではないかと想像する。とすると、「不惑」に該当するのは「晩年」と言える。不惑に到達するまで、多分孔子は凡人には真似のできない修行をしたのであろう。それで、40歳で「不惑」の境地に、そして50歳でそれまで生きてきた意味を見出したのではないか、と勝手にそう思っている。40年か50年しか余裕がないから、その間に到達できるところまで進もうとするのは、孔子のような知識人であれば当然だったかも知れない。そうして、実際に40歳で不惑に達したのだから、やはり孔子は偉いと言える。


ところが、21世紀初頭の現代日本はどうかというと、肝心の見積もり期間が違っている。平均寿命は80歳近く、女性だけなら80歳を超えている。もし孔子のような心境にたどり着きたいと考えるなら、猶予期間はかなりあると言って良い。時間があると、自然と人間は急がない。(少なくとも私はそうだ。)夏休みの宿題と同じで、休みも残り少なくなって慌てるのである。


つまり、昔は50年くらいだった見積もりの期間が、80年になっている。そんな中で40で不惑はちょっときつい。猶予期間が実に1.6倍になっているのだから、不惑を迎える歳も1.6倍しないと理屈に合わない。とすると、不惑の歳は40×1.6=64歳ということになる。


なるほど、現在の64歳といえば、多くの働き手は既に「定年」を迎えているか、直後に控えているか、という年頃である。それまでの人生の内容の如何は別として、そろそろ惑わされることも少なくなるに違いない。惰性的不惑到達ができそうである。これなら許容範囲に収まっているのではないだろうか。


1.6倍という係数は、ほかの年代にも当てはまる。例えば結婚時期。昔は10代半ばから20歳くらいまでの結婚が多かったと考えるが、仮に18歳とすると、1.6倍して28.8歳。現代の婚期と重なる。逆に、今の40歳は昔の25歳に相当する。


人間、長く生きたからといっても、その分だけ進歩するものではないであろう。昔50年かかってたどり着いた境地に、現代日本人は80年かけてゆっくりと進んでいるだけである。そう考えたほうが気が楽である。「私も不惑の歳を迎えまして・・・」などという人に限って、何事かに惑わされ続けているようである。


(これは、以前書いた文章の抜粋です。)